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東京高等裁判所 昭和30年(ナ)10号 判決

原告 中村亦一郎

被告 新潟県選挙管理委員会

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

原告訴訟代理人は、「昭和三十年四月三十日執行された新潟県北魚沼郡堀之内町町議会議員一般選挙における当選の効力に関する渡辺正の訴願につき被告が同年七月五日、同年裁第二号をもつてなした裁決を取り消す。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決を求め、その請求原因として、

一、昭和三十年四月三十日執行された新潟県北魚沼郡堀之内町町議会議員一般選挙(以下本件選挙と略称する)において、原告及び渡辺正外二十七名が立候補し、原告及び右渡辺正はともに百六十八票の有効投票を得た。右得票数は当選人となるには最下位の投票数であつたので、本件選挙の選挙長は、公職選挙法第九十五条第二項により、くじで原告を当選人と定めた。

二、しかるに右当選の効力に関し、渡辺正より同町選挙管理委員会に異議の申立をなし、同委員会は、同年五月六日同人の異議の申立は理由なく成り立たないと決定したが、渡辺正は、被告に対し訴願したところ、被告は、同年七月五日、同年裁第二号をもつて、『昭和三十年四月三十日執行の「北魚沼郡堀之内町議会議員一般選挙における当選の効力に関し訴願人のなした異議の申立に対し」北魚沼郡堀之内町選挙管理委員会がなした異議の申立は成立ずとの決定は、これを取消す。右選挙における中村亦一郎の当選は、これを無効とする。』との裁決をなした。

三、右裁決の理由とするところは、本件選挙において、無効とせられた投票中に「○正」と鉛筆で記載された一票のあることを確認し、渡辺正は〈正〉を屋号兼商号として自転車修繕販売業を営んでおり、「丸正」「まるしよう」が屋号兼商号から転化した同人を指称する通称であると認められ、これを熟知している選挙人が「○」「丸」又は「まる」の語音をあらわす意思のもとに同人に投票しようとして「○正」と記載したものと認められるから有効であるので、渡辺正の得票数は百六十九票となり原告より一票多くなる。従つて渡辺正が当選者となりうべきであるから、原告の当選は無効であるというのである。

四、しかしながら、被告の右裁決には、次の如き違法がある。

(1)  渡辺正が堀之内町の住居において屋号を〈正〉と称して自転車修理販売業を営み、附近の人から「丸正」「まるしよう」と呼ばれていたことは事実であるが、「丸正」「まるしよう」は選挙区たる同町全域にわたり同人を指称する名称ではなく、単に一部の人が用いていた名称にすぎず、投票に際し記載すべき氏名に代る通称ではない。従つて、仮りに「○正」の「○」が「丸」「まる」の語音を表わすものとして使用されたものであるとしても、「○正」は渡辺正の通称を表示するものでなく、同人に対する有効投票とはなりえない。

(2)  また、仮りに「丸正」「まるしよう」が渡辺正の通称であるとしても、「○正」と記載された投票の「○」は記号、符号であり、文字ではなく、氏名でもない。従つて氏名以外の他事を記載したものであるから無効である。「○正」なる記載における「○」が物の形状をあらわす意味で用いられたものでなく、「まる」という語音をあらわす趣旨で記載されたものと解する見解もありうるが、さような見解は、投票の秘密を保持することによつて選挙の自由公正を確保しようとする公職選挙法の趣旨に反する。けだし、公職選挙法が第四十六条第二項において、「投票用紙には選挙人の氏名を記載してはならない。」と定め、第六十八条第一項第五号に、「公職の候補者の氏名の外、他事を記載した」投票を無効と定めたのも、結局は、投票用紙の記載により選挙人の何人なるかを推測、認識することを不可能ならしめ、もつて投票の秘密を実質的に保護し、選挙の自由公正を確保せんがためである。しかるに、本件の如く、「正」の上部に「○」を附した記載の投票を有効視する見解をとれば、選挙人及び特定の候補者に投票せしめようとする者が、投票前にあらかじめ謀つて、投票用紙に、特定候補者の氏名又は氏若しくは名の上部に「○」その他の記号を附することにすれば、事前に謀議した者の員数と現実に「○」印の附せられた投票数とを比較することにより、謀議の具体的効果を知りうることとなり、ひいて選挙人がいかなる候補者に投票したかをも知りうることとなり、投票の秘密は破壊され、自由な意思に基く投票は不能となる。従つて「○正」なる記載の投票は、一般的に見て、選挙人が何人であるかを推定せしめるに足る有意の記号を含むものであるから、公職選挙法第六十八条第一項第五号により無効である。この点につき見解を異にし、右投票を有効とした右裁決は違法である。

五、仮りに、右主張が理由がないとするも、次の理由により、原告は、当選人たることを失わない。すなわち、

本件選挙における渡辺正の有効得票数は、「○正」なる記載の一票を除き、百六十八票であつたが、右得票中には、「カジ」(検甲第二号証)、「中村鍜治」(検甲第四号証)、「渡辺忠」(検甲第一号証)、「中正」(検甲第三号証)なる記載の各一票が有効票として算入されている。しかしながら、

(1)  「カジ」、「中村鍜治」が渡辺正の氏名でないことは勿論、通称でもないから、右記載の投票は、いずれも無効である。仮りに「カジ」が同人の通称とするも、「中村鍜治」なる記載の投票は無効である。本件選挙における立候補者中、原告の氏は「中村」であるから、「中村鍜治」なる記載は、原告の氏「中村」を記載したと解しえられる。しかるときは右の投票は、原告の氏と渡辺正の通称とを混記したもので、いずれの候補者に投票したものか統一ある意思表示として候補者の何人を記載したかを確認しがたいものとして無効であり、これを渡辺正の有効投票としたのは違法である。

(2)  「渡辺忠」は渡辺正の氏名でないことは勿論、通称でもなく、右記載の投票は無効である。「忠」と「正」とはその意義を異にし、渡辺正は、「渡辺忠」なる通称を有しないから、同人に対する投票としては無効である。本件選挙における立候補者中「渡辺」の氏を称するものは、渡辺正、渡辺貞一の両名であり、「渡部」の氏を称する者は、渡部貞吉及び渡部万作の両名である。堀之内町及びその近隣においては、「渡辺」「渡部」は、ともに「わたなべ」または「わたべ」と発音され、混同して使用されているから、明確且つ合理的な根拠なくして「渡辺忠」なる記載の投票を渡辺正に対する有効票として認定すべきではない。むしろ右渡辺正外三名、または少くとも渡辺正及び渡辺貞一の両名のいずれに投票したのか識別不能であるから無効とすべきである。

(3)  「中正」が渡辺正の氏名でないことは勿論、通称でもなく、右記載の投票は無効である。「中」を地名としての字「中村」の略、「正」を渡辺正の名の「正」であるとすることは、いわゆる牽強附会ともいうべきであろう。「中」を「中村」の略であると解することは、経験則上首肯しがたく、仮りに「中」を「中村」の略であるとしても、地名としての「中村」であると断定することは何ら根拠がない。原告の氏の「中村」の略とも解せられるのであるから、結局「中正」なる記載の投票は、原告と渡辺正とのいずれに投票したのか識別不能であつて、少くとも渡辺正に対する投票としては無効である。また仮りに「中」が地名としての字「中村」の意であり「正」は渡辺正の「正」としても、渡辺正には、「中村正」なる通称はないから同人に対する投票としては無効である。

以上渡辺正に対する有効投票数は、「○正」「カジ」「中村鍜治」「渡辺忠」「中正」のうち、いずれか一票のみが無効で他はすべて有効とすれば百六十八票となり、原告の有効得票数と同数で選挙長のくじによつて定めるべきところ、すでにくじによつて原告が当選人となつているので、選挙の結果を迅速に確定することを要すべき公職選挙法の趣旨に則り、すでになされたくじの結果を援用すべきであるから、原告は当選人たることを失わない。しかし二票以上を無効とすれば、渡辺正の有効得票数は百六十七票以下となるから、原告が当選人たることはすでに明白である。

よつて被告の右裁決の取消を求める。

六、本件選挙における原告の直近上位の当選人は井上正治で同人の有効得票数は、一七五・七五票であり、次点渡辺正の直近下位の吉田直一郎の有効得票は、一四六票であるから、本件係争投票の有効、無効は原告及び渡辺正以外のものの当落に影響するところはない。

七、被告の主張する検乙第一号証の投票は、「ナカとよ」と判読され、「ナカとよ」は、原告の通称「中豊」又は「中豊組」を指称するものであるから、原告の有効投票であり、右投票に附着している墨点は紙面自体からして不用意に附着した汚点にすぎず、有意の他事記入とみるべきでない。

と陳述した。(立証省略)

被告指定代理人は、主文同旨の判決を求め、答弁として、原告主張の事実中、一ないし三及び六の事実は、これを認める。四及び五の事実については、渡辺正の有効得票数の中に「カジ」(検甲第二号証)、「中村鍜治」(検甲第四号証)、「渡辺忠」(検甲第一号証)、「中正」(検甲第三号証)なる記載の各一票があつたことはこれを認めるが、その他は争う。「○正」なる記載の一票及び右四票はいずれも、次の理由により渡辺正の有効投票である。すなわち、

一、渡辺正は、昭和初年頃より堀之内町において、屋号兼商号を同人の名である正を冠した〈正〉と称し、自転車修繕販売業をかなり手広く営み、「〈正〉渡辺正」または「〈正〉輪店」等と新聞その他により一般に宣伝し、附近の人人や、堀之内町の人々から「丸正さん」、「まるしようさん」と呼ばれていて、近隣町村の顧客、同業者間にも広く知られており、堀之内町選挙管理委員会においても「丸正」等が同人の通称と認めており、「丸正」、「まるしよう」は同人の屋号兼商号より転化した同人の通称である。従つて「○正」の投票は、同人の通称を表示するために記載されたものであつて、同人の有効投票である。元来「○」が記号符号の類で、文字でも氏名でもないことは原告主張のとおりであるが、「○」が通常「丸」、「まる」、「マル」と呼ばれていることは周知の事実であり、本件の「○正」なる投票(検乙第二号証)はその筆跡の状況からみて鉛筆の濃淡も同一であり、また大きさも同じく、その配列も普通文字を続けて記載すると同程度に一見して、「○」が「丸」又は「まる」の語音として読ませるようにまじめに自然に記載されていて、名の上部に殊更に有意の他事を記載したものではない。しかも前記のように渡辺正の通称が「丸正」、「まるしよう」であつてみれば、「○正」と記載の投票が、これによつて選挙人の投票しようとする候補者の何人かを表示しようとしたものであることがうかがわれ、且つその意思以外に特別の意図のあることが認められない以上、「○」は、物の形状を表わす意味で記載されたものではなく、「丸」、「まる」、「マル」という語音を表現する趣旨で記載されたものと認められ、(参照昭和二十九年十二月二十三日最高裁判所判決)この場合には「○」は文字と本質的に異るものではない。従つて渡辺正に投票する意思で同人の通称を表示するため「○正」と記載したものとして同人の有効投票と認めることが妥当であり、かく解しても投票の秘密を侵し、選挙の公正を害する虞れがあるものとは認められないばかりでなく、公職選挙法第六十七条の法意に適合し、選挙制度の本旨に合するものといわなければならない。

二、渡辺正は、五代約百五、六十年間に亘り、殊に曾祖父平四郎、祖父国吉、父寅治の三代は堀之内町字中村において、鍛冶業をかなり手広く営み、渡辺正が昭和二年頃自転車修繕販売、農具商を始めたので鍛冶業を廃したが、かように先祖より鍛冶業を営んでいたため、堀之内町の人々は勿論、近隣町村の人々から「かじ」或はその地名を冠して「中村のかじ」又は「中村かじ」として知られ、且つ呼びならわされていて、「かじ」「中村かじ」といえば「丸正」とともに同人を指称する通称として用いられており、また本件選挙において「かじ」と呼ばれている候補者が渡辺正以外には一人も立候補していないので、「カジ」及び「中村鍜治」なる記載の投票は、渡辺正の通称を記載したものとして有効である。「中村鍜治」を原告主張のように原告中村亦一郎の氏と渡辺正の通称とを混記したものと見るよりも、渡辺正の居住する字中村の地名を冠した同人の通称を記載したものと認めることが妥当である。

三、本件選挙における立候補者中「渡辺」「渡部」の氏を称するものが原告主張のとおり四名あり、堀之内町では「渡部」も「渡辺」に近い呼び方をしていることは事実であるが、「渡辺忠」と記載せる投票(検甲第一号証)の「忠」は、「正」とともに「ただし」と発音することは周知の事実で、「渡辺ただし」と発音する候補者は渡辺正の外にはないのであるから、選挙人が「正」と記載するところを記憶違いにより同音の「忠」と記載したものと認めることが妥当であつて、明らかに渡辺正の有効投票となすべきものである。

四、「中正」と記載された投票(検甲第三号証)は、これを見るに、文字に書きなれない選挙人が墨筆で漸く書いたと認められる稚拙な記載で、「中正」と判読できる。しかして、「中正」の「正」は渡辺正の名であり、「中」は同人の住所地の中村を指すと見るべきで、本件選挙の二十九名の立候補者中この投票に該当する候補者は渡辺正の外他になく、農村地方においては、氏名を呼称するよりもその住所地を冠した「どこどこの……」等と呼ぶ方が一層はつきり特定人を指称し、且つそのようにしばしば用いられている点からして、「中正」は字中村の渡辺正に投票する意思をもつて、字中村を略してその「中」と名の「正」とをもつて「中正」と記載したとみることが選挙人の意思を尊重する所以で、右投票は渡辺正の有効投票とすべきである。

以上五票はいずれも渡辺正の有効投票であるが、この外に原告中村亦一郎の有効投票に算入されているもののなかに検乙第一号証の一票がある。これを見れば最初の二字は片仮名の「ナカ」と読めるが三字目はどうしても片仮名の「ト」又は平仮名の「と」とは読めない。四字目は平仮名の「よ」と判読できるが、これを通読して「中豊」と判読することは無理である。仮りに三字目を強いて平仮名の「と」と読めないこともないので、「中豊」と通読し得たとしても、「中豊」、「中豊組」が原告中村亦一郎の通称として一部の人には用いられていたことは事実のようであるが、堀之内町一般にわたり同人を指称する名称ではなく、氏名にかわるべき通称ではない。さらに進んで仮りに「中豊」等が原告の通称としても、「ナカとよ」以外の記載は筆跡のおもむくままに無意識のうちに附せられる点等の類とは異り、左側に附されているところから明らかに有意の他事を記載したものであつて、無効投票とすべきで、これを原告の有効投票のうちに算入さるべきでない。

以上のように検乙第一号証の一票を無効とし、一の「○正」と記載された一票を渡辺正の有効投票とすれば、原告の得票数は百六十七票となり、渡辺正の得票数は百六十九票となり、原告より二票多くなる。

従つて、原告の当選は無効で、渡辺正が当選人となるべきであるから、被告の裁決は正当であつて、原告の本訴請求は失当であると陳述した。(立証省略)

理由

原告主張にかかる一、本件選挙において原告及び渡辺正が立候補し、両名の得票がともに百六十八票で、くじの結果原告が当選人となつたこと、二、右当選の効力に関し渡辺正より堀之内町選挙管理委員会に異議の申立がなされ、同委員会において異議が却下せられたので、さらに被告に対し訴願がなされ、その結果被告は、堀之内町選挙管理委員会の決定を取り消し、原告の当選を無効とする旨の裁決をなしたこと、三、右裁決の理由とするところは、「無効投票中の「○正」と記載ある一票(検乙第二号証)を、「丸正」は渡辺正の屋号兼商号から転化した同人の通称であつて、「○正」の「○」は「丸」の語音を表わす趣旨で記載されたものであり、選挙人が渡辺正に投票しようとする意思の下に記載した有効投票と認めるべきであるから、渡辺正の得票数は、百六十九票となり、原告の得票数より一票多くなるので、渡辺正が当選人となりうべきで、原告の当選は無効である。」というにあること及び四、渡辺正の有効投票中に、「カジ」(検甲第二号証)「中村鍜治」(検甲第四号証)「渡辺忠」(検甲第一号証)「中正」(検甲第三号証)なる記載の各一票が算入されており、原告の有効投票中に検乙第一号証の一票が算入されている事実は、当事者間に争ないところである。

よつて、本件の争点は、(一)検乙第二号証、(二)検甲第二号証、検甲第四号証、(三)検甲第一号証、(四)検甲第三号証がいずれも原告主張のように渡辺正の無効投票と認むべきか、または被告主張のように同人の有効投票と認むべきか、(五)検乙第一号証が被告主張のように原告の無効投票と認むべきか、または原告主張のように原告の有効投票と認むべきかにあるので、順次これを判断することとする。

公職選挙法における投票については、投票用紙に自ら当該選挙の公職の候補者一人の氏名を記載し、且つこれには選挙人の氏名を記載してはならないことは、同法第四十六条の明定するところであり、その効力の決定に当つては、同法第六十八条の規定に反しない限り、その投票した選挙人の意思が明白であれば、その投票を有効とするようにしなければならないことも、同法第六十七条の明定するところであつて、投票用紙に候補者の氏名に代わるべき通称又は屋号等を記載した場合、或は候補者氏名欄の欄外に記載したような場合といえども、これによつて選挙人が何れの候補者に投票したものであるかを判定しうる以上、選挙人の意思を尊重してこれを有効とすべきは異論のないところであり、同法第六十八条に投票の無効を規定する所以のものは、選挙人の意思を忖度しがたいか、又は投票の秘密保持上支障を来たし選挙の自由公正を害する虞を生ずべきことを避けるにあつて、かかる虞なき投票はできる限りこれを有効とすべきことが選挙制度本来の趣旨であり、すべての選挙を基調とする代表者民主主義の根本理念に合致するものというべきである。よつて以下この見地に立つて前記疑問票六票の有効無効を検討することとする。

(一)  原告は、渡辺正が堀之内町の住居において、屋号を〈正〉と称して自転車修理販売業を営み附近の人から「丸正」と呼ばれていた事実はあるが、「丸正」は選挙区たる同町全域にわたり同人を指称する名称ではない旨主張するが、証人渡辺正の証言により成立を認め得る乙第二号証の一ないし四、第三ないし第五号証の各一ないし三、第六号証の一ないし四、第七、八号証、第九号証の一、二、第十号証の一ないし三、第十一号証の一、二、第十二号証、証人上村長治の証言により成立を認め得る乙第十三号証、証人森山茂広の証言により成立を認め得る乙第十四号証、証人渡辺正、上村長治、井上孫右衛門、森山源一、森山茂広の証言を綜合すれば、渡辺正は、居町堀之内町において昭和二年頃から屋号兼商号を「丸正」と称して自転車農機具修理販売業を営み、〈正〉自転車店、〈正〉渡辺輪店、丸正商店、〈正〉輪店、〈正〉と称して新聞広告その他の宣伝をなし、郵便物の差出、受取、取引関係書類、印判等にこの名称を用いており、堀之内町は勿論近隣町村、東京方面からも「丸正」が渡辺正を指称するものであることが知られ、これ、同人の氏名に代わるべき通称と認めるに十分であつて、本件選挙の前に行われた同町選挙管理委員その他関係者の集つた協議会においても、「丸正」と記載した投票を渡辺正の有効投票とする旨の打合があつた事実が認められるのであつて、「丸正」「まるしよう」は候補者渡辺正の通称として選挙人が同候補者に投票しようとするものであることが窺われ、且つそれ以外に特別の意図あるものとは認められない。しかして「○」は通常物の形状を表わす記号、符号として用いられ、一般には文字として取り扱われないことは原告所論のとおりであるが、「○」が通常「丸」「まる」と呼ばれることは周知のことであり、検乙第二号証の「○正」なる記載を仔細に検するに、「○」と「正」とがその筆跡からして鉛筆の濃淡、大きさほとんど同様でその配列も普通文字を続けて記載するに等しく、「○正」と記載することによつて、選挙人が渡辺正に投票しようとする意思以外の特別の意図あるものとは到底認められないので、右記載の「○」は物の形状を表わす意味で用いられたものではなく、「まる」という語音を表わす趣旨で記載されたものと解するを相当とし、本件の場合の「○」は公職選挙法の投票に関する記載については、本来の文字である「丸」又は「まる」と同一視することができる。かく解したとしても原告主張のように投票の秘密保持上支障を来し又は選挙の自由公正を害する虞を生ずるものとは毫も認められないばかりでなく、前記の見解にも適う所以で、検乙第二号証の一票は渡辺正の有効投票と認むべく、この点に関する原告の主張は理由がない。

(二)  証人渡辺正の証言により成立を認める乙第十五ないし第二十六号証、前記乙第十四号証、証人上村長治、井上孫右衛門、森山源一、森山茂広、渡辺正の証言によれば、渡辺正の家は、寛政元年から昭和二年頃父の代まで約五代に亘つて居町堀之内町大字原字中村において、鍛冶業を営み、堀之内町は勿論近隣村においても、渡辺正の家を「カジ」「鍛冶」と呼称し、「鍛冶」「カジ」といえば渡辺正を指称するのであつて、前記協議会においても「カジ」と記載した投票を渡辺正の有効投票とする旨の打合があつた事実を認め得るのであつて、「鍛冶」「カジ」は候補者渡辺正の氏名に代るべき通称として「丸正」と同様選挙人が同候補者に投票しようとする意思であることが認められるので、検甲第二号証の一票は渡辺正の有効投票と認むべきである。しかして「中村鍜治」なる記載の検甲第四号証について、これを仔細に検するに、鉛筆をもつて、よどみなく、かなり達筆に記載せられており、前記の証拠によれば(殊に乙第十六、十七、十九、二十、二十二ないし二十六号証、証人上村長治、森山源一、森山茂広の証言)、堀之内町その他近隣において、「中村カジ」が渡辺正の通称として用いられていた事実を認め得るので、右投票の「中村」は渡辺正の住所を表示したもの、「鍜治」なる記載は「鍛冶」の誤記と認むべく、正確には「鍛冶」と記載すべきを語音に拘泥して「鍜治」と記載している事例はしばしば見られるところであるから、「中村鍜治」なる記載の右投票は、選挙人が渡辺正に投票しようとする意思をもつて記載したもので、それ以外に特別の意図なきものと認めるを相当とする、原告は、「中村」なる記載は原告の氏「中村」を記載したものと解し得られると主張するが、右認定及び検甲第四号証の記載態様より考察して、原告の氏と渡辺正の通称とを混記したものと認めがたく、むしろ選挙人が渡辺正のみに投票しようとする意思であつたものと認めるを相当とする。かく解することは前記の見解に適う所以であつて、この点に関する原告の主張は理由なく、検甲第四号証もまた候補者渡辺正の有効投票と認める。

(三)  検甲第一号証の「渡辺忠」については、「忠」は「ただし」と訓読し、渡辺正の「正」もまた「ただし」と訓読することは特に説明を要しないところであつて、本件選挙の候補者中「渡辺」の氏を有する者が渡辺正、渡辺貞一の両名、「渡部」の氏を有する者が渡部貞吉、渡部万作の両名で、堀之内町及びその近隣において「渡辺」「渡部」ともに「わたなべ」と近似音で呼称されることは当事者間に争ない事実であるが、渡辺正を除き他の三名はいずれも二字名であつて、一字名は渡辺正より外なく、しかも「正」と「忠」とが「ただし」と同一に発音される点から考察して、選挙人は、渡辺正に投票しようとする意思をもつて「正」(ただし)と記載すべきを記憶違又は誤記により同音の「忠」(ただし)と記載したものと認めるを相当とする。かように検甲第一号証を候補者渡辺正の有効投票と認め、かく解することは前記の見解に適う所以である。この点に関する原告の「候補者の何れに投票したか識別不能。」との主張は理由がない。

(四)  検甲第三号証の「中正」と記載された投票については、これを仔細に検するに、投票用紙の欄外に墨字をもつて「政」と記載し、これをほとんど記載文字のわからないほどに抹消し、その右横に「中」と記載し「政」の直ぐ下に「」と記載してあるのであつて、「正」なる文字としては、中の「」が「」となつており、ただ画数が同一であるので、これを「正」と読むことができる。しかして本件選挙における候補者中「中正」なる氏名若しくは氏名を有する者のないことは前記証拠により明らかであつて、証人渡辺正、森山茂広の証言によれば渡辺正は堀之内町において、「中村」と居部落の名をもつて呼称せられている事実が認められ、右投票の記載に表われた稚拙な文字からしても、この投票は、選挙人が渡辺正に投票しようとする意思をもつて、その居部落「中村」の「中」をとり渡辺正の名「正」をとつて「中正」と記載したものであることが窺われ、且つ、それ以外に特別の意図のあることが認められないので、右投票は候補者渡辺正の有効投票と認むべきで、かく解することは前記の見解に適う所以で、この点に関し原告は「中正」の「中」は原告の氏「中村」の「中」の略とも解せられるから原告及び渡辺正のいずれに投票したのか識別不能との主張もまた採用しがたい。

(五)  次に被告の主張する検乙第一号証については、最初の二字は「ナカ」と読み得るが三字目は判読に困難であつて、一見したところでは平仮名の「も」のようにも読み得べく、四字目は「と」と読み得る。しかして、前記上村、井上両証人の証言によれば、原告は、堀之内町において、氏名に代るべき通称として「中豊」または「中豊組」と呼称せられ、前記協議会においても「中豊」または「中豊組」と記載された投票は原告の有効投票と認むべきことに打ち合せられた事実を認めることができるのであつて、原告の通称「中豊」を念頭において右の投票をみるときは、これを「ナカとよ」と判読し得ないわけではない。その字体も稚拙であつて、右投票は、選挙人が原告中村亦一郎に投票しようとする意思の下に、かように記載したのであつて、それ以外に特別の意図あるものとは認められないので、これを原告の有効投票と認めるを相当とする。被告は、右投票は有意の他事記載がある旨主張するが、右「ナカとよ」以外の記載は、鉛筆を用いなれない者が何ら他意なく、鉛筆を用いたことによつて生じた汚点とも見るを相当とし、これを被告主張の如く他事記載とするは妥当でない。この投票は、前記(四)の「中正」の記載と同巧異曲であつて、いずれも甲乙なく、検甲第三号証を有効投票とするならば、検乙第一号証も同様に有効投票とせざるを得ないであろう。かく解することは前記の見解に適う所以である。

以上本件係争投票について判断を尽した次第であつて、当事者双方の提出援用にかかる証拠中他に右認定を覆し得るものはない。

しかして、本件係争投票の有効無効が本件選挙における原告及び渡辺正以外の候補者の当落に影響することなき事実は当事者間に争ないところであつて、前叙のように本件選挙における渡辺正の有効投票は百六十九票、原告の有効投票は百六十八票となること明白であつて、渡辺正の得票数は原告よりも一票多く、同人が当選者となりうべく、原告の当選は無効であるといわなければならない。

よつて、これと同旨の被告の前記裁決は相当であつて、右裁決の取消を求める原告の本訴請求は、これを認容するに由なく、失当なるをもつて棄却すべく、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 大江保直 草間英一 猪俣幸一)

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